代表取締役 松下 公子

代表取締役 松下 公子

  • メ~テレアナウンサー
  • 愛媛朝日テレビアナウンサー
  • ラジオNIKKEIアナウンサー
  • 佐渡テレビアナウンサー

アナウンサーになるのが夢!・・・ではなかった

茨城県鹿嶋市出身。「いつかは東京で働くんだ」都会に憧れていた女の子は、見事、東京の女子大生になることができました。
勉強はほんの少しだけ。あとはバイトやサークル、今を楽しむ普通の大学生活を送っていました。そんな私は、実は最初からアナウンサーになりたかったわけではありません。

大学生活

大学3年時に、当時お付合いしていた方に振られまして、、時間もお金もあまりにあまってしまった。何かしたいなと思っていたところに、大学の先輩がアナウンサーになったと友人から聞いたのです。
「うちの大学からもアナウンサーって内定するんだ・・」という驚きとともに、先輩が通っていたというアナウンススクールに興味がわきました。
「自分磨きをして私のことを振ったあの人を見返してやりたい!」そんな気持ちからアナウンススクールに申込みをしたのです。

「ではまず、自己紹介からお願いします」と講師の先生が声をかけました。
「はい!私の特技はスエーデン体操です」「私は石垣島出身島生まれ島育ちです。」と、生徒たちは次々と個性あふれる自己紹介を明るくハキハキと話しています。正直、面食らいました。

・・私以外の生徒は皆、完全にアナウンサーを目指していたのですね。 そんなやる気溢れる皆と一緒にアナウンスを学びながら、私もあれよあれよという間にアナウンサー受験をすることになりました。 でも、なぜ、アナウンサーになりたいのか?が頭が真っ白になって面接で語れない私。そりゃそうです。もともとは、自分磨きのためにアナウンススクールに入ったわけですから‥。 「私には無理だ。辞めよう」たった2カ月でアナウンサー受験を終了させることにしました。辞めるとなると行動が早かったです。 さっさと一般就職をはじめ 、即、コンタクトレンズの会社に内定しました。 アナウンサーには全く未練がなく、大学4年時は旅行にアルバイトと遊びまくりでした。 そんな私がまた、アナウンサー試験を受けることになるとは!

満たされない自分を大きく変えたのは

希望に満ち溢れ、コンタクトレンズの一般企業に入社しました。 しかし、慣れないパソコンでの企画書づくりや電話応対などの営業サポートで、ミスばかりの連続。
「本当にお前は使えないやつだな」 先輩に毎日のように怒られていました。そんなストレスを抱えながらも、本社勤務の私はお店勤務の同期と比べて待遇が良かったのです。
お給料もボーナスもいい。残業がなくて、18時にはさっと帰宅できる。さらに土日祝日がお休み。
こんなにも恵まれているのに何とも言えない満たされない思い。
結局、しゃべる仕事がしたいと1年もたたず会社を辞めました。土日は、結婚式やイベントMCのアルバイト、平日はコールセンターなど声を使う仕事を中心にアルバイトを3つ掛け持ちする多忙な生活でした。
そんなとき、1通の手紙が届きました。アナウンサーになった友人からです。

一般企業に入社した頃

最後まで頑張ってアナウンサー試験を受けていて見事、夢を叶えた彼女です。手紙には「今度、全国放送にでるから良かったら、見てね!毎日、怒られてばかりで辛いけど、頑張っています」と書いてありました。 そうなんだと、手紙を読んだときは友人の言葉をただただ、受け止めていただけでした。
そして番組当日。「あ、〇〇ちゃんだ」
海辺で船に乗ってリポートする友人の姿に釘付け!キラキラ輝いていてとてもまぶしかったです。本当に本当に、素敵でした。

こんな素敵な子が私の友達なんだ!という誇らしい気持ち。
それと同時に、もう一つの気持ちがわき上がってきました。
「私もアナウンサー試験をもっと本気で受けていたとしたら、、
今頃私は、キラキラするあちら側にいたのだろうか?」

アナウンサーの仕事がしたい。
もっともっと、しゃべりの仕事がしたい。
ふつふつとわき上がってきた思い。
そしてもう、後悔はしたくないという思い。

これまでのモヤモヤがはれて、
しっかりとした自分の思いを感じました。
その後、社会人からリベンジしてもう一度試験を受けたのです。
そして内定した局は・・佐渡島にある佐渡ケーブルテレビ。
小さな島にあるケーブルテレビでした。
そんな島だなんて・・と周りは止めました。
でも、私の心は最初から決まっていたのです。
「アナウンサーって、どんな仕事!?一度やってみる!」
経験なくしてはじまらない。そして、もう後悔ばかりの人生とはさよならしたいと決めた私でした。

私の原点・佐渡ヶ島でのアナウンサー経験

佐渡ヶ島とは?人口は約56,000人(平成30年3月末)。四方を海で囲まれているZの形をした島です。金が取れた島としては佐渡金山が有名。近年では、朱鷺(トキ)でしょうか。
佐渡での生活は幸せでした。海あり山ありで自然豊か。とにかく、お米に魚介類、フルーツと食べ物がおいしい!
地元の方がとても親切で「縁もゆかりもない佐渡に来て寂しくない?」と声をかけてくれたり。地元のお祭りに誘ってもらって、会社の先輩たちと一緒に出掛けたり。島の人たちはすぐに仲良くなりました。
そしてなんといっても、やりたかったアナウンサーという仕事ができるということ。 日中は、佐渡を盛り上げようと尽力する人々の取り組みなどを取材。急いで帰ってきて、原稿を書く。
そして、自分で取材して書いた原稿を夕方のニュースで読む。取材して、書いて、読み伝えてと、なかなかの忙しさです。

佐渡ヶ島時代

それもケーブルテレビはアナウンサーがカメラの5キロの三脚を肩に担いで移動するんです。だから、外での取材はいつもジーパン姿。
女子アナって綺麗なワンピースを着るんじゃなかったんだ、とイメージが大きく崩れましたね。
憧れとはちょっと違っていたけれど、アナウンサーである日々の生活が日常であるということ。それが私の幸せでした。
そしてなってみてわかったことがあります。それは、アナウンサーの仕事は自分がしゃべる仕事ではないということ。人の思い、本音を引き出す仕事であるということです。
私たちの役割は、カメラが回っていて緊張している相手をリラックスさせ、本当の思いを引き出し、言葉にしてもらうということ。なんと魅力ある仕事なんだろうとアナウンサーになってから、アナウンサーという仕事の魅力に取りつかれていったのでした。
「アナウンサーという仕事を一生続けたい」
佐渡での生活が1年たった時、この思いが確信となりました。そのためにも地方民放局へのステップアップ転職を目指し、再受験を始めたのです。

親を驚かせ、周りからも止められた佐渡でのアナウンサー生活でした。
でも、この経験が間違いなく私の原点です。

その後、愛媛朝日テレビ、名古屋テレビと大きな局にステップアップ。「佐渡でアナウンサーをする!」とあのときに迷いなく決断した自分を褒めたいです。いなく決断した自分を褒めたいです。

私の地方民放局内定・面接ストーリー

島のケーブルテレビで仕事をしながらのアナウンサー転職活動。
大変になるか、、と思いきや、実は3局目の受験ですぐに内定してしまいました。大学時代はあんなに苦労したのがうそのようです。
ご縁があったのは、愛媛朝日テレビ。愛媛にあるテレビ朝日系列の民放局です。
最終面接は6人ぐらいだったでしょうか。
ミス松山や大学のミスコンで優勝したという見た目華やかな女子たち、全く緊張していないという自信に満ち溢れた子たちがいました。
「ああ、この中で私はとても普通だし。いや、むしろ目立たないな」と試験が始まる前からすでに落ち込んでいました。
そしていよいよ最終面接。
私一人に対し、社長や重役などずらりと10人は並んでいました。
「佐渡からいつ来たの」などある一人の方からのみ、質問がされていきます。

アナウンサー時代

他の9人の皆さんはというと、書類に目を通しているばかりで全員が下を向いています。
どんなに一生懸命質問に答えても、私の顔を見てくれません。悲しかったです。
でも、驚きの瞬間がきました。
質問者の方はこう聞いてくれました。「もうすでに、アナウンサーの仕事をしているのだけど、どうして今回うちの局を受けてくれたのかな?」

「はい」
私はゆっくりと話し始めました。

「私は今、朱鷺 (トキ) を取材しているのですが、」
それを聞いた下を向いていた重役の皆さんが一斉にバッと顔を上げました。そして私の顔をじっと見てくれたのです。驚きつつも、私はつづけました。
「私は今、朱鷺の取材をしています。中国からやってきた2羽の朱鷺の存在は日本と中国の懸け橋になるという意味からも、今、島には全国からメディアがやってきて取材しています。
大きい局のアナウンサーは「今、朱鷺は羽を広げました。ご覧いただけましたか?」など生中継で朱鷺の様子を伝えていますが、私にはできません。
私がいる局では、中継をする人材と設備が整ってないんです。私は録画放送ではなく、ライブ、生でニュースや情報をお伝えしたいんです。」私はただただ、本当に思っていることを伝えました。重役の皆さんはしっかりと私の顔を見ながら、前のめりになって話を聞いてくれました。話をしながら、「あ、私、内定したわ・・」と確信を持ちました。

自分のストーリーを語り、私は競争倍率1000倍以上と言われるアナウンサー試験を突破することができました。現在はSTORYアナウンススクールの代表であり、指導者として、内定率7割近くという高確率でアナウンサー志望者さんを内定させてきました。

短期間でアナウンサーに内定させている秘密とは?

アナウンサー内定コーチとして活動をはじめた初期のころ。メ~テレでご一緒していた先輩女性アナウンサーとランチをしたときに私の価値観を大きく変える一言を言われたのです。「きみちゃんって、そんなに努力しないですぐにアナウンサーになれたよね!」

「え?私は、新卒ですぐにアナウンサーになれなかったし。バイト3つ掛け持ちして、フリーターから佐渡ケーブルテレビのアナウンサーにようやくなれたし。ん?どういうこと?」

頭の中が?マークでいっぱいだった私に先輩アナウンサーはこう質問しました。

先輩アナ「きみちゃんは佐渡ケーブルテレビが内定したときは何局目で内定したの?」

「えっと、2局目です。」

先輩アナ「佐渡ケーブルテレビから、愛媛朝日テレビに内定したのは何局目?」

「3局目です」

先輩アナ「ほら、5局しか受けてないないじゃない。私は新卒の時、100局受けてアナウンサーになったのだけど」

なんと!!!衝撃が走りました。私は実はそんなに努力せずにして、短期間でアナウンサーに内定していたのです。私はコツコツと頑張ってきて、ようやく夢を叶えたと間違った思い込みをしていたのですね。

これまで私はブログやメルマガでの発信、そしてコンサルでこう話していました。「諦めずに受け続けていたら、いつかはアナウンサーになれるから」

しかし、先輩アナウンサーの一言で私は、その日からこう、指導するようになりました。【「なりたい」を「なる」に変えたら、今すぐあなたはアナウンサーになれるよ】と。

私の指導方針、価値観が変わったことで、生徒さんたちも、短期間でアナウンサーに内定する子たちがでてきました。

  • 1 局目、10 日で静岡朝日テレビに内定
  • 1局目、14 日で福井放送に内定
  • 1局目、6 日で NHK 水戸に内定
  • 9 日で、NHK 松江に内定
  • 1か月で秋田朝日放送に内定

などなど

自分なんて大したことない。

アナウンサーになるなんて難しいよね。

不安や怖さを持っていても、「でも、やっぱり、アナウンサーになりたい。なる!」という夢を叶えたい子たちの可能性を広げてあげたい。

それもアナウンサーという魅力ある素晴らしい仕事を早く、体験させてあげたい。そんな思いで、アナウンサー内定コーチとして10年駆け抜けてきました。

現在は、北は北海道から南は沖縄まで、現役アナウンサーの元コンサル生さんがそれぞれの地域で活躍しています。

先日行ったオンライン新年会には現役アナウンサーの元生徒さん、そして今、アナウンサーを目指している生徒さんと 30 人もの方が参加してくれました。

もう、もう、圧巻です(笑)

私たちは可能性に溢れています。

エントリーシートが全く通らなくても
面接で自信を持って話せなくても
社員でアナウンサー未経験でも
年齢が 30 歳であっても 

「アナウンサーになる」という可能性に向かって、半歩でも前進したい。

そんなあなたをSTORYは、応援し続けます。一緒に頑張りましょう!